霊信似顔絵が一致したエピソード・・
この冬 (2020年11月〜12月) 、わたしの身辺に起こった心霊エピソードです。
霊信と似顔絵に関するエピソードですので、このサイトの歴史似顔絵にご興味おありの方は、
今回の記事も関連しますので、ぜひ併せてお読みください・・
この秋に、主人の友人であるZさん(すいません、なるべく個人を特定しずらいよう仮称Zさん、としておきます)という男性がお亡くなりになったのですが、
Zさんは、主人と昔からの友人で仲がよかったのですが、
うちの主人があまりマメな性格でないため、ずっと長年ご無沙汰にしており、
Zさんが亡くなる直前になって、主人とZさんの共通の知人であるZさんの奥様が、
疎遠であっても二人が仲が良いのを知っていて、
「もうダメかもしれないし、最後に会うなら今が一番いいから・・」と連絡をくださって、
主人は面会に行ったりしていたようでしたが、冬の前にZさんがお亡くなりになったんです・・
で、お亡くなりになった際に、奥さまのほうから、
「よかったら、ぜひ奥さん(←私のこと)もこちらの自宅に一緒に来て、お線香あげてやってください。」と。
私と主人はずいぶん年が離れており、主人とZさんとは学生時代からの友人のようですが、
主人が結婚した年が遅かったこと、お互い家庭生活などもあり、ずいぶん疎遠にしていたこともあり、
私自身はZさんには一度もお会いしたこともないんですが、
話だけではZさんのことを時々主人から聞いていたこともあって、
お会いしたことはまったくなくても親近感を少し持っておりました・・
それでね・・ ここから霊の世界の話に入るんですが、、
私自身が霊の世界の扉が開いている人間ですので、
Zさんがお亡くなりになってから、すぐZさんの霊さんと(亡くなって、初めて!)同調により、
面会できたのです・・☆!
(Zさんも、話では私のことも少し聞いていて、「いつか、みんなで飲みましょう・・!」と思っていたのが、亡くなって初めてわたしと面会が叶いました・・)
で、Zさんは、亡くなるに際して、重い病の末にお亡くなりになっており、体が思うように動かせない想念でずっと幽玄界あたり(つまりずっと下のほうにおられて)、
こちらのご神仏様のとりなしにより、上のほうに上げてもらって、一緒に話したり、
私のそばから主人を見下ろして、難クセをつけたり・・(・・つまり、ずっと疎遠にしていたことをなじり・・)
していました。
Zさんが亡くなって、日にちが経ち、ご自宅に伺って(わたしはご自宅に伺うのも初めてになります)お線香をあげに行く日が近づいたので、
Zさんが近くにいて霊通信していることもあり、
どうせならそばにいるZさんの似顔絵を描いて、奥さんに渡してあげよう。。
と思いついたんです・・
でね、
私は、
そばにいるZさんの霊の顔を元に似顔絵を描き始めました・・
(私):「(主人に向かって)Zさんて、メガネをかけていた・・?」
(主人):「・・・・・・・(ノーコメント)」
うちの主人は、無頼派で自分の証明写真とかはもちろん持っていますが、
写真というものをあまり持っておりません。
(別に不細工とかそういうのではありません、男前のほうだと思います・・)
もちろん、Zさんの写真なんてのも全く持ってません・・。
(・・というか、私が見たことがないだけなのか、主人の実家にでもあるのかもしれませんが・・)
それに、私の主人は、秘密主義なところがあり、
だから、私がさっき、
「Zさんて、メガネをかけていた・・?」と聞いても、ノーコメント、無視(´Д`;) よけいな事は言わない・・
(注:ちなみに、うちの主人というヒトは、理系で霊の存在やその世界を 全く 信じないタイプで、
主人のお母さんが亡くなって霊体になった際の様子を私が話しても、、
「いい加減なこと言ってんじゃねぇ・・!」
とにかく物理的に根拠がないことは全く信じない・・
そういうタイプです・・)
でね、、(そういうヒトだから、主人に隠れてナイショで)似顔絵を描き進めていく時に「えっ???(゚∀゚;)」と
面白いことに気付いたの。。
Zさんに霊の世界で初めてお会いするまで、
60代後半の男性の姿、、として、
(「イメージ」ですよ、、)
どちらかというと、「薄顔(つまり年をとってあまり印象のなくなった「しょうゆ顔」)」で、「髪は短髪で。。」なんて、勝手に ”想像” していたんですが・・
・・
なんかね、そばにいるZさんが、(私が、「似顔絵を描いて、お線香をあげる日に奥さんに渡しますね。」と言ったら)、顔を近付けてきて・・
その姿がね・・
「えっ こんなんアリ・・???」っていう感じの髪型だったワケ・・

菅原洋一さんて、知っとる・・?
(私):「えぇぇっ?? 今どき そんな髪型アリ・・???」
(※ちょぉぉっとぉ 今どき かなり 珍しいですよね・・汗; モチロン顔立ちは全然違いますケド・・ それにしても、今の時代ではかなり珍しいカミガタ・・)
・・それでね・・
「@メガネ + A菅原洋一さんの髪型(笑)+ Bギョロ目」
で、出来上がった似顔絵は・・

Zさん
(※ここで、目を描き入れてしまうと、個人特定につながってしまいますので、あえて目は描き入れないでおきます)
(※ここで、目を描き入れてしまうと、個人特定につながってしまいますので、あえて目は描き入れないでおきます)
Zさんは、大きなギョロ目をしているのですが、
Zさんが近くにいた時、またたぶん本人もより目を見開いていたため、元々大きな目がより大きく強調されていたせいか、私が ”勝手に” ギョロ目=二重まぶた、と思い込んで、二重の大きな目を描き入れてご自宅に持参したんですが、
まずご自宅に招き入れられて、わたしが突進した先は、ただ一点。Zさんの顔写真・・。
実はですね、
霊のヴィジョンで視たZさんの髪型が、イマドキかなり珍しい髪型だったため、
「ひょっとしたら、霊信が違ってるんでは・・?!」
とかなり心配だったんです・・ だって、あんな(なんて言ったら失礼だけど)珍しい髪型・・
でね、「あっ」と思ったのは、
ギョロ目が失敗した・・↓
お写真で実際に見たZさんは、ギョロ目はギョロ目なんですが、これまたかなり珍しい
一重ギョロ目・・
(Zさんは、一重でこれだけ大きなギョロ目、、ということは、かなり目のきれいな男前のお顔立ちだったんですが、わたしがギョロ目=二重の大きな目、、と勝手に思い込んで、目だけ失敗しました。いやー、わたしも50年近く生きてますが、一重でこれほど大きな目をしたヒトは見たことがありません・・汗; かなり珍しいケース・・)
あとはね、メガネだとか髪型だとかのほかの特徴はピッタリ一致・・
(一番びっくりしたのは、うちの主人ではないですかね。。
それ以来は、私が霊世界の話をしても、聞くようになりましたね。。)
いやー、今回、私の思い込みで、目の二重線のところだけ失敗しましたが、
そもそも考えてみると、最後に天界・神界のところで添削確認をしてもらえばよかったのです・・!
・・というのは、私が毎回作成する歴史上の人物の似顔絵は、
最期に必ず、天界・神界の境界で顔を確認してもらい、90点以上の精度になるまで手入れをし、お墨付き(最終確認)をもらってからアップしているのですが、
今回、このZさんの時は、それもやらなかった・・↓
今回のZさんの件は、大変よい経験になりました・・
今日はね、韓国の歴史で聖君(善政を敷いた王様)として有名な英祖の生母・淑嬪崔氏を霊視します。
(しばらくぶりの投稿で、お題は何にしようかな〜、と悩んでましたら、
天界・神界のほうで、ご指名ありましたので、淑嬪崔氏にしました。)
淑嬪崔氏は、韓国歴史ドラマで、いくつか
淑嬪崔氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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出典検索?: "淑嬪崔氏" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年12月)
淑嬪 崔氏
숙빈 최씨
称号
和敬淑嬪(諡号)
出生
1670年
死去
1718年
配偶者
粛宗
子女
英祖
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淑嬪 崔氏
各種表記
ハングル:
숙빈 최씨
漢字:
淑嬪 崔氏
発音:
スクピン・チェシ
日本語読み:
しゅくひん・さいし
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淑嬪 崔氏(しゅくひん さいし、スクピン チェシ、1670年 - 1718年)は、李氏朝鮮の第19代国王粛宗の嬪。 第21代国王英祖の生母。諡は「和敬」(和敬淑嬪)。
生涯[編集]
本貫は海州。後日、領議政を追贈された崔孝元の娘として、1670年に生まれた。粛宗2年に7歳で入宮したとされている。宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、実際には針房(チムバン、침방)に所属していた宮女である(後に対立する禧嬪張氏も元は針房の女官であった。針房の女官は王族に仕える至密の女官に次いで高位であった)。後に仁顕王后付きの内人(尚宮でない女官の総称)となる。
1689年、仁顕王后閔氏が廃位され禧嬪張氏が王妃となった。
その後(1692年4月22日以降。正確な時期はわかっていない)、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン、승은상궁。正五品相当)になり、粛宗19年(1693年)4月26日に淑媛(スグォン、숙원。従四品相当)になる。その年、王子を産むが、2ヶ月で亡くなる。
甲戌換局(朝鮮語版)で仁顕王后が復位された年(1694年)の9月13日、延礽君(ヨニングン、연잉군)、後の朝鮮の21代国王の英祖を産んだ。それに先立ち、同じ年の6月2日に淑儀(スグィ、숙의。従二品相当)になっている。
粛宗21年(1695年)6月8日に貴人(クィイン、귀인。従一品相当)になる。
粛宗24年(1698年)7月7日に子を産むが3日で亡くなる。
粛宗25年(1699年)6月13日、前年に第6代朝鮮王端宗が241年ぶりに復位されたことを祝賀して、正一品相当の淑嬪(スクピン、숙빈)となる。
1701年10月から1704年4月の間に本宮の昌徳宮(チャンドックン、창덕궁)を離れて、梨峴宮(イヒョングン、이현궁)に居所を移す。梨峴宮は淑嬪房(スクビンバン、숙빈방)と呼ばれるようになる。
粛宗37年(1711年)6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子・延礽君の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す。
1716年ごろから急に病がちになり、私邸で療養していたが、 1718年3月息子・延礽君の私邸で亡くなる。享年49。